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 ■ケータイの文字送信に関すること


 《"Eメール"と"ケータイのメール"》

ケータイのメールが、厳密に言って「インターネットメール」であるか、そうでないかについては下記リンクのFelixMobile氏のコラムに詳しい。
ここではそういうシステム的なことも踏まえつつ、別の側面から論じてみたい。

そもそもDoCoMoにはイントラ網である「i-mode」を「ケータイメールの標準仕様にしたい」という目論見があったと言われている。そのためかプロトコルもインターネット標準のものではないDoCoMo独自のものを使用している。
デジホン時代のvodafoneがいち早くインターネットとの接続点を設け、IDO時代のauがそれに追随し「何故DoCoMoとだけメールのやりとりができないのか?」という疑問の声が他キャリアのみならず自社ユーザーからも上がるようになると、i-mode網をインターネットに繋がざるを得なくなったのだが、その時点でi-modeのユーザー数もかなりの数に上っていたため、インターネットへの接続を考慮した新たなシステムを構築し直すこともできなかった。
だいたい、当時のDoCoMoのユーザーの感覚としても「インターネットに繋がった」というよりは「今までDoCoMo相手にしか送れなかった"メール"が、やっとJ-フォンやIDO相手にも送れるようになった」というのが普通だったのではなかろうか?
他のキャリアを見下していた「ツケ」とも言えるが・・・現在でもi-mode仕様のmova端末では画像ファイルの添付ができなかったり、メールの機能としてreply-toが利かなかったりと他のキャリアのシステムから比べて大きく遅れを取ってしまったのも、そのあたりの経緯による。

ところで、もともとパソコンなどでEメールを利用していて「インターネットメール」に親しみのあるユーザーと、ケータイのメールしか知らないユーザーとの間には、その意識において大きな隔たりがある。

「Eメールあがり」の人はケータイのメールのやりとりでも、例えば機種依存文字は使用しないとかのEメールでは常識的になっている最低限のマナーはキチンとわきまえているし、ファイルを添付する場合でも形式や容量を気にしたり、受信側の端末に依存しないメールを送ろうとの心がけを無意識にでも持っている。また、ケータイで同報送信を行う場合でも"To.","CC.","BCC."を使い分けたりできる。

これに対してケータイのメールがインターネットに繋がっているという意識のない人は他キャリア宛ての(インターネットを経由する)メールにも平気で絵文字を使ったり、送信先の"To."欄に不用意にいくつものメールアドレスを列記して、意図しない第三者間でメールアドレスを流出させたりしても気付かなかったりする。自社キャリアでのみサポートしている形式のファイルや、自分の端末でしか表示されないサイズの画像ファイルでも、相手を気にせず添付送信したりする。「自分が送信したメールが、どのように相手に受け取られているのだろうか?」という事に、あまりにも無頓着な人が多い。
これについては、ユーザーだけの問題ではなく、メーカーやキャリアがきちんと説明の責任を果たしていないという理由もある。

「文字化け」防止のために、携帯電話端末の機能として送信宛先を"E-mail"に(自社以外のキャリア宛ての、インターネットを経由するメールに)した場合には、メールの文章作成中に機種依存文字は使用できない仕様になっているべきだと思う。特に、他キャリア宛てのメールで「〓(下駄の歯)」を送り付けてくるユーザーが一番多いDoCoMoには「標準仕様」として端末メーカーに義務づけてもらうことを望む。
vodafoneの場合では、ほとんどの端末がそういう(Eメール宛てには機種依存文字を使用できない)仕様になっている。最近、シャープ製端末(SH)や三菱製端末(D)で「○(マル)に数字」「ローマ数字」等の一部の機種依存文字がE-mail宛ての文章作成時に出せるようになってしまったものがあるが、これは「改悪」である。

もっとも、これは携帯電話の世界に限ったことではなくネット社会全般的に、パソコンの一般への普及に伴って従来常識とされているインターネットマナーに対する意識の低下が見られつつあるのが実情だが・・・。
多数のユーザーに向けて送られ、受信側の端末に依存しないことを考慮するべきメールマガジンのようなものでも以前に比べて機種依存文字が使われること(Macで見ると項目の見出しが(月)(火)(水)・・・になっているようなもの(^^;)が多くなってきたように感じる。

近年「自分が書いたメールの内容について、相手がどのように解釈・理解するだろうか」ということにまで思いが至らないことや、「相手から送られてきたメールの内容をどのように解釈・理解したらよいか」に深慮をめぐらせることもなく、そのことが原因で対人関係に摩擦が生じるケースも少なくないように感じるが、そのことと「自分が送信したメールが、どのように相手に受け取られているのかについて思いが至らない」という事のあいだには共通の問題が潜んでいるように思う。

簡素で手軽なものだからこそ、省かれた手間や情報を補完する能力も求められているのではないだろうか。

話は変わるが、「ポケットベル」の時代から築き上げられてきた文字や記号の送受信による意思伝達についてはアンダーカルチャーというかサブカルチャー的な世界が存在する。限定的な世界の中の、さらに限られた世界、というか・・・。
「そこ」では、限られた人間にしか理解できない独特の手法が横行したりする。

ポケベルの時代の「その世界」では、「NTTのものより東京テレメッセージのものの方が使える」と言われていた。
NTTでは数字の他に"*","#","[]","-"等の記号が使えたが、TLMではそれに加えて何故か英字の"u"を送受信することができた。
たかが"u"一文字と思うだろうが、それだけではるかに文章(というよりは暗号に近いものがあったが…)の幅が広がったからである。

そんなサブカル的世界も、ポケベルの時代には数字とごく一部の記号だけしか使えなかったものが半角カタカナが送れるようになったりPHSの時代を経て携帯でようやく普通の文字が送れるようになるという変化の中で「遊び場」を失い、その「世界観」が薄まってゆくにつれて廃れていくことになったのだが・・・
ケータイのメールが一般大衆化した現在でも、消滅したようにみえて底流に潜伏し、いつでも表面化の機会を窺っているように私には思える。

最近の一例として、若い女性を中心とした一部の人のあいだで「ヘタ字メール」が流行していたりする現象があげられる。
こういう人たちにとっては、自分のケータイが「インターネットに繋がっている」ということよりも、携帯電話端末などの「道具」を通して「自分が繋がりたい人と繋がっていられる」ことの方に関心がある。

インターネットが外へ、拡大へと向かっていくのに対して、世界を閉じようという流れが存在するのも事実で、私的にはそんな陽の当たらない部分も大事にしたいものだ、と思う。

 ※参考サイト
・ケータイ Watch:モバイル・インターネットは本当にインターネット?

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 《伝統的文字数制限文化の末流》

日本人というのは、ある一定の制限を設けられることによって、かえって創造力を発揮して、ハタ目には不自由と思えるような環境のなかに自由や楽しみを見い出したりすることに長けている民族であるような気がする。
例えば、仏教の思想を背景に日本独自の文化として発展してきた精進料理の世界。
肉類や卵・乳製品を用いることが出来ないという「制約」が、かえってその中でいかに美味しく栄養価の高い料理を作るかという「創造力」を発展させる原動力になり、結果としてさまざまな味覚の新境地を開拓することになった。

本来「環境」とか「制限」それ自体は決して「自由」を妨げるものではないものであるのだが・・・。
縛られていると感ずるのは自分自身の心なのだ。環境や他人が決して縛ることのできないものが、自分自身の心なのだ。

「自由・不自由」のことについて論ずるのは別の機会に譲る。

ポケットベルに始まり、盛んに流行(?)している携帯電話などを利用した文字送信(いわゆる「メール」)も、一面では短歌・俳句などに見られる日本の「文字数制限の文化」の伝統の延長線上にあるといえるのではないだろうか。

現に、一日に50通〜100通ものメールを飛ばしまくって遊んでいるへヴィユーザーに「もっと文字数送れた方が便利なんじゃない?」と聞くと「そんなに送れなくてもねぇ…」とか「べつに送れる文字数は増えなくてもいいよ」と答える場合が多いのである。
むしろ送れる文字数が限られていた頃の方が、「遊べた」とも言える。
少ない送信文字数制限に収まるような「ケータイメール」独自の言い回しを開発したり、それがまたヘヴィなメールユーザーの手から手に伝わっていったり・・・。

一時期(今から4、5年前)、携帯電話の液晶ディスプレイ(表示部)が各キャリア・各メーカーとも6文字×3行というのが主流だったことがあったが、この頃にパソコンで言ういわゆる「アスキー文字」というか、6文字×3行の画面をうまく使った絵文字が流行した。
面白い「作品」が誰かから送られてくると、それを他の人に転送したり。

まぁ、そんな密かな楽しみではあったが、それも「今は昔」のことになりつつある。
その後「表示可能文字数はできるだけ多い方がよい」という業界全体の流れによってディスプレイの大きさもメーカー間で不統一になっていくに従い、その流行もすたれていくこととなった。
譬えて言うなら、子供たちの楽しい遊び場であった近所の空き地が「都市開発のような抗いがたい、何か大きな力」によって奪われてしまったかのような虚無感すら漂ったものである。

つまりは、ただ表示できる文字が多くなればなるほど幸せか?といえば、決してみんながみんなそう感じるものでもない。

これはギネス・ブックに「世界で一番短かい手紙のやりとり」として取り上げられている有名な話だが、かのヴィクトル・ユゴーが本の売れ行きを気にして出版社に「?」という手紙を送った。それに対する出版社の返事は「!」だったという。この、たった一文字の手紙のやりとりにも百の言葉では言いつくせない思いが込められている。

コンピューターゲームの世界を見ても、まだハードウェアも発達しておらずソフトやプログラムの作成にも現在の状況からは考えられないほどの制約が存在した頃のゲームの方が楽しかったように感じるのは私だけだろうか?
世の中「なんでもできる」ということが必ずしも良いというわけではないということを知るべきではないだろうか。
制限や枠が設けられていようと、それをするのが人間である以上、最終的には人間次第なのだ。

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(※本ページのデータは2004年8月現在のものです)



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